2012年7月24日

復活を音にこめ、願う日々(2)

今から間に合うかしら?今日24日19時~、この時の仙台フィル&山形交響楽団マーラー復活前日の公演(山形公演)がUstreamにて放送されます。もし間に合わなくても、8月6日までアーカイブ放送でいつでも同チャンネルで視聴可能です。どうぞ是非!ご覧下さい。
また、仙台公演の様子は9月にNHKBSで放送予定だそうです。聞き比べもまたあり?でしょうか。凄く良かったのでご興味のある方はこちらも宜しくお願いいたします。

さて、マーラーの復活についてですが、この日の演奏は2005年に出版されたキャプラン版という新しい楽譜をメインに用いられています。、
パンフを読むまで知らなかったのですが、このキャプランさん、なんと、音楽家でも指揮者でも研究者でもなく、実業家として成功した後に「復活」を聴いて感銘をうけ、この曲を指揮したい!という思いだけで研鑽を積み、直筆譜を揃え、とうとう「復活専門の指揮者」という唯一無二の存在としてウィーンフィル等と数多くのオケと組み、CDを出すほどになった方です。
その方が研究に研究をして出来たというのだから、凄い。そんな方がいらっしゃるのですね。何という情熱。

さてそんな演奏ですが、私はどうもマーラーに苦手意識があるらしく^^;決して嫌いではありませんが復活も演奏会4日前になって慌ててCDを買って、聴き込んだ・・・と言いたいですがディスクを換えるのも少々面倒で^^;(80分近くあり、CD1枚では入らないのです。)何回かは聴きましたが、なんとかおぼろげに分かるかな、程度。特に長い1楽章では眠ってしまうのではないかと戦々恐々で当日を迎えました。
ところが、最初から演奏に圧倒されたというか(多少予習は効いたみたいでもありますが)眠っている暇は全くありませんでした。手に汗握り、のめりこんだ演奏だったというか、2つのオーケストラの合同という急ごしらえな感じを全く受けない、自分、実はマーラー好きなのか?と思えるくらいの^^;ハッとさせられる演奏でした。
とても熱意のこめられた、震災からの復興を真に願う80分だったと私は確信しています。
終わった後、指揮の飯森さんが何処か感極まったような、しかししっかりと、復興を願うメッセージをおっしゃってくださった事にも、とても気持ちの良い風を感じられるような気分がしました。
終わった後、駅近くのホテルまで20分近く歩いたのですが、ずっと復活、良かったね。とそんな話ばかりしていました。杜の都に相応しい演奏ではなかったかと感じています。
これを聴きに仙台まで出かけて本当に良かった。そして、その願いが天にも届いただろうと私は信じています。

まだまだ震災の傷は癒えそうにもありません。何か出来る事を、・・・そうですね、自分の場合は観光でまた足を運ぶ事で、物産があればそれを買うことで、ほんの些細な事でもいつも気にかける様にしたいと、そう考えています。

※今回の旅でとても嬉しかった事の一つが、元かりんとうブロガーの一押しでもある中山せんべい店のかりんとうが、しおがま・みなと復興市場(マリンゲート塩釜に沿ってあります)で復活し、再びかりんとうを手にする願いが叶った事です。
元のお店は東塩釜駅の近く・・・海からそう離れていない所にあったため、去年様子を見に行ったときは、店構えは辛うじてありましたが中はもぬけの殻に・・・大変ショックでした。
店主のお孫さんらしき男性が「じいちゃん(かりんとう)作っていないとボケちゃうから」なんて話していましたが、狭い仮設厨房、それも家庭用鍋で(!)作っていたかりんとうの味は変わらず!但しもう一つの看板商品である手賀の浦せんべいは機械がなく現在作れないそうです。来年このお菓子と共に、元の場所にお店が戻れたら、というお話でした。
ここのかりんとうはかりんとうらしさを存分に感じつつ、他では味わえない軽さとコクがあります。かりんとう趣味は止めてしまいましたが、今でもここのお店は大好きです。

 そしてもう一枚。今回はじめて気仙沼まで足を伸ばしました。女川からでも2h?えらい遠かった・・・のですが、東日本大震災の象徴にもなった流された大型船を見てあ然。気仙沼市の看板も立っていたこともあり、これだけは一枚撮りましたが、気仙沼市以外も含め、後の震災の爪痕は、写真すら撮る気になりませんでした。
この写真だけでは良く分からないと思いますが、気仙沼に入ってからの私の印象としては
普通の郊外の町→港へ近づくにつれ、崩れ落ちそうな建物の数々→でも港の観光施設は営業している。復興の気配はある→さらに車を走らせると突然、焼け焦げたスーパーと、何だか分からない基礎だけがある広大な敷地と、この船が街中に出現します。
(1)でも書きましたが、ひとつの街中でも場所によって風景が大いに異なり、突然ペシャンコになった車や消防車の墓場を連想させる一群があったかと思えば、ある場所では生活の感じをも押し潰した瓦礫の山々が連なり、かと思えば一見何もなかったような普段の街の様子のようにも映る場所もあります。
しかし、海沿いにあったと思われる集落の多くは、瓦礫こそ大分撤去されてましたが、ここに家があったのだろう、という痕跡だけが残る、想像力と恐怖を試されるような所になっていました。
気仙沼線の破壊もすさまじく、線路はほぼ全域で崩れ、陸橋の多くは流され、駅はどこにあったのかもさっぱり分かりません。

そして今回宿泊した追分温泉から15分ほど車を走らせたところ(追分温泉は山中ですので、時間以上に近く感じると思います。)にあった北上川沿いの大川小学校・・・目の当たりにした私達は、手を合わせるしかありませんでした。(検索するとそこがどんな場所なのか、分かると思います。)ここも少し車を走らせると、あの恐ろしい破壊と大して距離は違わないのに、北上川沿いでも別の光景が広がります。不可解ですらありました。何がどう、こんな違いを生んでしまったのか。
あと、未だ多くの場所が津波の塩害によって、田んぼだと思われる所の耕作が行われていませんでした。米どころ東北、またここに黄金色の稲穂が垂れる日が来る事を、切に願いたいです。





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